馬と一つに(11月下旬)

【12月の日曜日】
何年か前のお葬儀でした。
故人は喪主の奥さん。
お葬儀が終わり、
ご主人とその子どもたち夫婦でお茶をしながら、
49日後の満中陰法要の日程を相談しました。
いろいろ相談した結果、
遠方の長男さんの都合で12月下旬の日曜日に決まりそうになった時、
突然次男のHさんが声を出しました。
「あっ、その日は!」
「どうした、都合が悪いのか?」
「いや、兄さんが都合がいいならその日でいいよ。」
「どうしたの? 何かあるならいいなさいよ。」
「いや、いいよ、いいよ……」
父や兄弟が何度もたずねました。
そこで弟さんは言いました。
「実は……その日は有馬記念があるんです。」
一同苦笑い。
後で知ったのですが、
相当の競馬好きの方でした。
Hさんは言いました。
「亡き母を思って(観戦は)あきらめます。」
【忌日】
「一周忌」や「三回忌」等、仏事は「忌む」という意味の「忌」という字を用います。
「死」を不吉な事として忌み嫌う(遠ざける)のではありません。
「物忌み」(得体の知れないものを遠ざける)のための儀式でもありません。
世間の万事をさしおいて、仏法のご縁にあいましょうというのが浄土真宗の「忌む」です。
忌といふ文字の訓はいみなり。これすなわちその亡日において、
かの徳を謝するよりほかに他事をいみて禁断する義なり。
『至道鈔』(『浄土真宗聖典全書』4巻、1361頁)
その人を思う一日にし、その人が願っている事として、自身がお法(みのり)にであうのです。
南無阿弥陀仏の話、
すなわち阿弥陀如来のお話、
本願成就の名号と他力回向の光明の話を聞きます。
それは他ならぬ私の話です。
どこまでも死ぬ事を怖れ、わが罪を罪とも思えぬ私のための話。
今もそうであり、これからもかわらぬ煩悩罪濁の凡夫の私を救うというお法の話です。
その中心は如来のご本願であり、
その本体は名号(本願成就の相)、「南无阿弥陀仏」にあります。
名号「南无阿弥陀仏」を私が称え、仏のはたらきにおまかせし、浄土の世界をいただく私。
そんな私の行動・心境の源は、どこまでも如来のひとりばたらき、名号のはたらきです。
一滴の私の自力の心(功徳を積まんとする心)でさえ、如来の救済には必要でなく、
むしろ一粒の自力の心(如来を疑う心)さえ、救いの邪魔になるのです。
如来のはたらき一つといただき、
わが身の「いのちそのものの問題」が今ここに不安なき身となった心ぶり、
それを「他力の信心」といいます。
【仏凡一体】
現在、日曜日に競馬を題材にしたドラマが放送されています。
妻夫木聡主演の「ロイヤルファミリー」。
有馬記念での優勝を目指したドラマのようです。
その第一話でこんな台詞がでてきました。
少しでも(競馬で)勝率を上げたいなら、血統のいい馬をたくさん持てばいい。
でもな、血統のいい馬をたくさん揃えるためには、莫大なカネが要るんだよ。
でも、競馬はそれだけじゃねえ。
積んだカネの額だけが勝敗を決めるわけじゃない。
それよりな、ほんの一瞬、馬とジョッキーが、いや、馬に関わるすべての人間が、馬と一体になる瞬間があるんだよ。
まさに人馬一体ってやつだ。
それがすべてをひっくり返すことだってある。それを知っちまったら、もうやめらんないよ。
人馬一体、この瞬間がどんなものなのか、
競馬をしない私には分かりません。
競馬好きのHさんには分かるのかもしれませんが。
人馬一体は分かりませんが、
他力の信心をいただいた事を「仏凡一体(ぶつぼんいったい)」といいます。
仏心と凡心がまったく一つになった事柄です。
凡夫の煩悩の心の全体に仏心がいたりとどきます。
煩悩具足の凡夫が浄土で仏になるべき身とならしめられた状態です。
心から煩悩が消えたわけではありません。
如来さまと一つになっている人生です。
ちょうど川が海に入り込んで、すべて潮になった状態です。
川の水が消えたわけではありません。
しかしもう川の水はありません。
川の水が転じられ潮に成った状態。
そんな転成(てんじょう)の心がそなわった念仏者です。
これを「転悪成善の益(てんまくじょうぜんのやく)」といい、
他力の信心をいただいた利益の一つと親鸞聖人は示されます。
ありえない事が今なしとげられた状態。
「それを知っちまったら、もうやめらんないよ。」
「南无阿弥陀仏」と報恩のお念仏をせずにはもったいない今日の一日です。
(おわり)
