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過去の法話

 

語呂合わせ(9月上旬)

水仙

【9月4日】

 

「今日9月4日はクラッシックの日です。」
そんな話を聞きました。
「ク(9)ラシ(4)ック」と読む語呂合わせです。

 

面白いので早速子どもたちに。
「今日は何の日か知ってる?」
「クシ(94)の日?」
「クジ(94)の日?」
「いや、クラッシックの日。」
「へぇ〜。」

 

調子に乗って妻にも言いました。
「今日は何の日か知ってる?」
「……知らない。」
妻は少し疲れていました。
かまわず、
「クラッシックの日なんだって。」
「……クラッシックの日?
今日は一日中大変だったの。
そんな悠長に音楽なんて聴いてられないわ。
今日は「苦しみ(く(9)るし(4)み」の日よ。」

 

おっしゃる通りで。

 

【功徳の日】

 

語呂合わせは好きです。

 

ただ人によってはそのために、
数字の「9」や「4」を嫌う人がいます。
9は「苦」に、4は「死」を連想するようです。
(納骨堂の番号「○−9」は、本人たっての頼みで「○−1」に。)

 

9月4日が苦しみの日だった妻ですが、
しかし仏教では「一切皆苦」といって、
一生涯が苦しみの日です。
朝起きて、ジョギングをしながら「素晴らしい朝焼けだ。今日は良い日だ」と感動しながら、
その半時間後に、夫婦で口論し、「なんて嫌な日だ」というのはよくあります。
苦しみとはいつも背中合わせの毎日です。

 

そんな私に説かれたお釈迦さまの教えが、
阿弥陀如来の物語。
本願を建て、浄土を建てたという話、
その聞き所を親鸞聖人は「摂取不捨」と示されました。

「待っていては救われない患者さんがいる」(喜多見幸太、ドラマ『TOKYO MER〜走る緊急救命室〜』より)

「お浄土に必ず生まれさせる」という願いは、
「摂め取って捨てない」という信念の表明です。
その願いの完成形が「南无阿弥陀仏」の名号です。

 

「南无阿弥陀仏」は単なる名前ではなく、
浄土の真実をうけとるのが浄土真宗という教えです。

 

「今日9月4日は『苦しみ(く[9]るし[4]みの日』だった。大変だった。」
「今日9月6日も『苦労(く[9]ろ[6]う)の日』だった。しんどかった。」
「今日9月7日は『苦難(く[9]な[7]ん)の日』だった。辛かった。」
「今日9月8日は『悔やむ(く[9]や[8]み)の日』だった。失敗ばかりだった。」

 

残暑厳しい毎日、愚痴がこぼれやすい毎日です。
しかし南无阿弥陀仏のお念仏を通して、
「だからこそ如来さまは離れておられなかったと」いただく時、
別の語呂合わせが見えてきます。

 

「大変だったが、今日9月4日も『功徳染みこむ日』だった。勿体なかった。」
「しんどかったが、今日9月6日も『功徳一杯の六字の日』だった。ありがたかった。」
「辛かったが、今日9月7日も『功徳が流れる日』だった。尊かった。」
「失敗ばかりだったが、今日9月8日も『功徳ではちきれる日』だった。嬉しかった。」

 

【クラッシックとは】

 

「浄土経典なんて古典、古くさい。聞いても分からない。」

 

では古典落語もそうでしょうか?
古くさいでしょうか?
クラッシック音楽はどうでしょう?
クラッシックとは「古典的な」という意味です。
時代を超越したのが「古典」です。
一向に古くさくありません。
お経も同様です。

 

もし古くさいイメージがあれば、
それはそういう演奏にしかまだであっていないのだと思います。

 

ただ「食わず嫌い」という人がいるように、
苦手な人もいます。
小学5年にもなって、トウモロコシが苦手なわが娘。
ですから母親は何とか食べさせようと励まします。
「美味しいよ!」と言って、「一口でも」と口に持っていきます。
しぶしぶ口にする娘。
いつかその美味しさに気づくことでしょう。

 

お浄土の話は誰もが最初は「食わず嫌い」です。
葬儀といった死ぬ話と直結して苦いですし、
またピンとこないので無味乾燥なのです。
しかしその美味しさを知っている人からのご縁で、
いつの間にか「ありがたい」といただけるようになるのです。

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 


 

 
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